感触 First Touch
「先輩…」
海堂の声が呼んでも、乾はやめなかった。
乾の手が海堂の体を這っている。脱がせるわけでもなく、
背後から手を伸ばし、シャツの裾から潜り込んで、
もうずっと海堂の筋肉を確かめている。
乾に誘われた時、海堂は迷ったフリをした。
もう何日も前から、乾は海堂の練習を見ていた。
メニューを組んだのは乾だが、単にデータを取っているのだと
海堂は気にしてもいなかった。
乾を意識し始めたのは、部活を終え、
最初に部室を出た海堂を追いかけて来た時だ。
「自主トレやってるんだろ?」
乾はほとんど表情を変えずそう言った。海堂は少し鬱陶しくて、
曖昧に頷いた。
しかしそれから乾は、部活後も海堂につきあう、
というよりはついてくるようになった。
他の者を寄せ付けないという意図があってそうしているわけではないが、
海堂はひどく威嚇した態度を取ってしまう。
そのせいで後輩や同級生からは怖がられ、
先輩からは微妙に間を置かれている。
乾はそんな海堂に気軽に声をかけてくる。
なぜかわからないが、乾が自分に目をかけていることは、
海堂自身にもわかっていた。
乾の作った練習メニューをこなせば、筋肉も体力もつき、
自分の体がより「戦闘向き」になっていくのがわかる。
海堂はそのことが密かな喜びで、誰よりも真面目に
メニューをこなしていた。
そのことはメニューを作った乾にもわかるらしく、より厳しく、
より高いハードルを海堂に課してくる。
いつの頃からか、乾の示したハードルを越えることは
海堂の目標となり、それはひどく当たり前で心地よいものへ
変わりつつあった。
レギュラー入り、大会での優勝、全国制覇。
同じ目標を持つものは他にもいたが、
乾と海堂の関係はそれだけではない何か…、
共に戦う同志、そんな信頼関係が芽生え始めていた。
海堂はそういうものを全く信じないし、むしろ馬鹿らしいと
思っているのだが、ひたむきな自分をただ一人知っている乾を、
他の人間とは別だと、認めざるを得ない部分があった。
乾はまだ海堂の体を撫でている。
「いい筋肉だ。柔らかくて柔軟。お前みたいな奴しか、俺のメニューには
ついて来れないな」
「もうやめてくれ」
海堂は耐え切れなくなってぶっきらぼうに言った。
「何だ海堂、感じるのか」
抑揚のない声が嘲笑うように言った。乾は腹の底で何を考えているのか、
全く人には見せない。それが海堂には腹立たしく、そして
堪らなく惹かれる。
「顔が赤いぞ、海堂」
「…」
海堂は黙り込んだ。からかって楽しんでいるのだ。ここへ来るべきじゃなかった。
ひどく無機質な乾の部屋をちらりと見ながら海堂は思った。
海堂は終わりを祈った。
「そんな嫌そうな顔をするなよ。お前が意識してたのくらい、わかってるんだ」
「!」
乾のようにポーカーフェイスになれればいい。しかし海堂の顔は
赤みを増すばかりだった。乾に気づかれないように、必死で
隠していたつもりが、何もかもわかっていたらしい。
「マジで勘弁してくれ、先輩」
息を荒くしながら言うと、乾はやっと手を抜いた。乾の手が
触れていた場所が、ざわざわと海堂を非難する。
「お前と俺なら…」
乾が俯いたままの海堂の頭に手を置いた。
「いいダブルスになれると思う」
低い声が言う。しかし乾の言葉は、
本心を読み取るには無難すぎた。
海堂は測り兼ねて沈黙した。
わかってて、何も言わねえ。コイツのやりそうなことだ。
「帰る」
荷物を持って立ち上がった海堂に、乾は笑いかけた。
しかし眼鏡越しの視線からは、やはり何も読み取れない。
あからさまな好意とか、愛情、いや、
信頼する者への愛着みたいな…そういうものさえ含んでは
いないような気がした。
さっきまでの乾の行為はひどく
エロチックだったのに、辻褄が合わなくて海堂は動揺した。
「先輩、」
「何だ?」
思わず呼びかけてから、海堂はやめた。
「…何でもねえ」
家人がいないことを思い出した。
河川敷での自主トレが終わり、誘われた時、
乾は最初に今日は誰も帰らないと言った。
海堂は思い出して唇を噛んだ。
玄関まで送られて、家を出る。
別れを告げると、火照った体がもっと熱くなった。
乾から離れた体が、海堂を責めた。
「…」
確かめる術もなく賭ける勇気もなくて、逃げ出した。
泣きたいような気持ちを堪えて、歩き続けた。
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