感触 Ninth Touch
「先輩」
「なんだ? 海堂」
乾が振り向き、海堂を見る。
「走り込み、一キロずつ増やしたいんスけど…」
「ああ…そうだな、」
乾の眼鏡が反射した。一種、冷ややかに見える態度はそれだけで
乾らしかったが、海堂にはわかった。
クソ…壁を作ってやがる
乾の視線が海堂から離れる。ノートを開き、自分の見解を述べる
仕草は、いつもと変わらない。それがもどかしい。
ひどく事務的な態度に、小さな憤りを感じた。海堂にとって乾は
テニス部の先輩以上の存在になっていたが、あの日曜日から、
乾はラインを引いたように、そこへ入ってこない。
不器用な海堂には、誘うような素振りを見せることも出来ず、
遊びの続きだと無理に自分を納得させた。しかしそうやって
素っ気無い態度を取るうちに、二人の距離は
元の位置まで戻ってしまった。
「徐々に増やした方がいいと思う。だから最初は五百ずつからね」
乾は抑揚のない声でそういうと、じゃ、頑張って、などと言って、
コートへ入っていった。
三年だから、先輩も必死なんだ…。
海堂は堪えるように睨み、乾の背中を見送った。
自主トレも変わらず一緒だったが、部屋に誘われることもない。
何も、何もない。
「お前のスタミナあっての追い上げだったな、海堂」
氷帝戦を終え、皆と別れて二人だけになっても、
海堂は喋りたい気分ではなかった。けれど乾はやけに饒舌だ。
「ラケット投げた時はお前らしいと思ったよ」
「…」
海堂はアスファルトを見ながら黙ったままでいた。桃城の発破に反応して、
ラケットを投げ捨てた時、乾は何も言わずそれを拾った。
「今回の試合はなかなか面白かった。たくさんデータが取れたから、
分析するのが楽しみだ」
乾がひどく嬉しそうに肩に手をまわしてきた。
夕日に伸びた海堂の影の隣に、少し高い乾の影が連なる。
「…」
海堂は無表情にされるがままで歩いた。帰る気になれなくて、
何となく乾について学校へ戻り、部室で時間の経つのを待つ。
部室のベンチに掛け、下を向いたままでいる海堂を、時々乾がちらりと見る。
乾は隣で窓枠に腕をついて、窓の外のテニスコートを見つめていた。
「海堂、」
声をかけあぐねていた乾が呼んだ。
「ブーメランスネイクは完成したんだ」
「負けたんスよ」
海堂は一言返した。強い視線で見、唇を噛む。
「…」
今度は乾が押し黙った。
クソ。
何でだ。
…どうにも出来ない。
部室の床を睨み付けたまま、海堂は手を握り締めた。
「海堂…俺たちのテニス、出来たと思わないか?」
乾が静かに言った。
「でも…負けたんスよ。勝たなきゃ、意味がねえ…っ」
涙が溢れ出して、海堂は急いで拭いた。泣くつもりなんかなかった。
海堂は俯いてすすり泣いた。
悔いの残るような試合はしなかった。ただ、負けたという結果に
全てを否定されたようで悔しかった。
「悔しくないんすか。先輩は…何で平気で笑ってられるんすか」
床に落ちて染みる涙。
「…負けって、失うことじゃないと思うよ、海堂」
「!」
この人の言葉はいつも予想外で、俺を救ってくれる。
乾の気配が自分の傍にあることを、海堂は思った。よけいに泣けた。
「…海堂、」
乾の声が呼んだ。海堂は涙を拭きもせずに顔を上げ、
無意識に、あ、と小さく言った。窓の外を見つめたまま、乾が言う。
「借りを返してくれるんだろ」
乾は海堂を見て小さく笑うと、眼鏡を取りながら海堂に背を向けた。
見たことのない後ろ姿に、何も終わっていなかったことを思い出す。
「…はい」
ずっと、不甲斐ない自分に当たることしか出来ないでいた。涙を拭く。
次は、勝つ。先輩と一緒に。
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